イタリア紀行
ブロンズになった作品着色室
1974年9月山本稚彦先生の指導の基、イタリアで人生を学んで来なさい、と文化庁芸術家在外派遣員としてイタリア、ローマに一年間の研修に出掛けた。鋳造所の受け入れは良かったが、指導者(アルベルト・サネッリ氏)は最初に一分でも出社に遅れたらそのまま工場の立ち入りを禁止し日本に返す、イタリア語以外は話してはならない、指導者に口答えはしない、等々大変厳しく指導を受けた。元来ルーズな性格でしたので、厳しさは小生にとって良かった、と思います。
仕事時間は朝7時30分から夕方の5時30分まででした。周りの人にも仕事の指導を受けたがアルベルトの様な厳しさではなかった。このような緊張感がクリスマスまで続いた。遊びではなく仕事を習いに来たのだ、と自覚もあったので仕事は苦しくはなかったが元来不眠症なので寝られないのがつらかった。毎日ペンションと工場を往復するだけで街を歩く様な時聞はあまりなかった。仕事の休みは休息で寝ていました。クリスマスの前日アルベルトが小生を呼ぴ、今まで良く辛抱した、社長からクリスマスプレントをもらってやる、これからは自由に学べ、と1万リーレ(当時の約5千円)を渡された。
口型原型の修正中の様子
焼成が終り炉を取り除き、型を取り出し湯込の準備の様子
どこの誰だか分からない小生を学ぱさせてその価値を認めてくれた事が何よりうれしかった。1年間ではすべとを学ぶ事は無理でしたので、最低必要な事を学ばしてほしいとお願
いをした。いいだろう、と承知してくれました。自由に学ぶ事は出来るようになったが、最初に言われたことは守った。
仕事はこのような事でしたので、街に出掛けることはあまりなかった。帰国後周りの人にローマのレストランの事、とか街の様子を聞かれても、よく分からない、と答えることしか出来なかったので、皆さん笑っていた。
ローマに行く2年前からローマ出身のマウリッリ・フランコさんにイタリア語を学んでいた。成績はあまり良くなかった。ローマ在住では1ヶ月に1度ぐらい日曜日にフラン
コさんのお母さんから昼食をする、と連絡がありフランコさんのお兄さんが迎えに来てくれた。嬉しかったので出された物は全て食した。食事がすむと動けないほど満腹でソフャーで寝て笑われていた。このようにフランコさんのご兄弟も家族は皆さん優しくしてくれた。フランコもクリスマスにローマまで小生の様子を見に来て下さいました。フランコと
ご家族は今でも友達です。
ペンションのオーナー、ミウジックさん、従業員、ペンションで知り合った方々皆さん親切でしたので、小生は仕事を学ぶ事に専念できた、と思います。小生は親切にしてくれた方々に何もして差し上げていないが今でも感謝は忘れていない。山本稚彦先生が、イタリアに行かせてくれなかったら、あのー年がなかったら、あの方々に会えなかったら今の家族も友達も仕事も、そして小生自身の人生もないと思う。
仕上げ場での様子